
子ども食堂が「当たり前」になった現実
全国の子ども食堂は、すでに1万軒を超えました。
2010年代に始まったこの動きは、地域の温かい支援の輪として全国に広がりました。
けれども、もし本当にすべての子どもが家庭で安心してご飯を食べられる社会であれば、
これほどまでに子ども食堂が増える必要はなかったはずです。
物価の高騰、賃金の停滞、非正規雇用の拡大、そしてひとり親家庭の困窮。
こうした現実が重なり、子ども食堂は「最後のセーフティネット」として地域に根づいてきました。
いまや、子ども食堂は“特別な活動”ではなく、“日常の支え”として欠かせない存在になっています。
善意だけに頼る限界
多くの子ども食堂は、寄付やボランティアといった民間の善意によって支えられています。
企業や市民から寄せられる食材や資金、ボランティアの人々の力が、毎日の食卓を守っています。
しかし、これほどまでに国中で必要とされている活動を、善意だけに委ねてよいのでしょうか。
炊き出しや食材の準備、光熱費、会場の運営――。
現場では、支援の負担が一部の人に集中しています。
「継続したくても、寄付が足りない」「人手が足りない」――そんな声が絶えません。
それでも、「子どもたちの笑顔のために」と歯を食いしばって続けているのが今の現実です。
政治の沈黙と国の責任
一方で、政治の場ではどうでしょうか。
国会議員が一晩で何十万、時には何百万円もの税金を飲食に使う――そんなニュースも後を絶ちません。
その現実を前にして、「なぜ子どもの食事は寄付に頼らなければならないのか」と疑問を抱くのは当然です。
子ども食堂は温かい取り組みですが、その存在が「国の責任の放棄」を覆い隠してはいけません。
本来、政治が担うべきは「支援の穴を民間で埋めること」ではなく、
そもそも支援がなくても困らない社会をつくることです。
子どもの貧困、孤立、食の格差――。
これらは個人の努力や寄付で解決すべき問題ではなく、政治の構造的課題です。
それを放置し、民間に頼り切ることは、国家としての責任放棄にほかなりません。
子ども食堂が不要になる社会を
政治が本当に果たすべき責任は、子ども食堂を「増やすこと」ではなく、「不要にすること」です。
家庭で安心して食事ができる。
働く親が生活に余裕を持てる。
子どもが孤立せずに育てる――。
そうした社会を制度として整えることが、政治の役割のはずです。
現場の努力を讃えることは大切です。
しかし同時に、「なぜ現場がここまで頑張らなければならないのか」という根本の問いを見失ってはいけません。
政治がその問いに答えない限り、子ども食堂は増え続け、そして疲弊していく一方です。
「異常事態」を終わらせるために
子ども食堂は、子どもたちの命と笑顔を守る最後の砦です。
けれど、それが“当たり前”であってはなりません。
ボランティアや寄付に支えられたこの温かい仕組みが、
政治の無策を補うための常態になってしまっている今こそ、危機感を持つべきです。
子どもの食事を国民の善意に委ねる社会は、健全とは言えません。
国の責任を曖昧にしたままでは、この「異常事態」は終わらない。
政治が本気で向き合い、子どもたちの食卓を“制度として守る”仕組みを築くこと。
それが、次の世代に誇れる国づくりの第一歩です。
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日本の子どもの 9人に1人が貧困状態です。
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小さな支援でも、大きな力に変わります。
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