
SNSで話題になった発言
X(旧Twitter)で、ある政治家の投稿が注目を集めました。
多くの子ども/地域食堂は年齢や職業に関係なく受け入れています。
皆さん、食べに行ってもいいんですよ。居場所としての存在意義も注目されています。
決して貧困世帯向けとかではありません。そんな建て付けであれば、気軽に行けませんよね?
この投稿に対し、ある市民がこう返しました。
グダグダと言い訳をすんな。
なんであなたが上から目線で言えるのよ?
ボランティアと寄付で成り立ってんのよ?
あんたそこで手伝ってんの?寄付してんの?
政治家なら子ども食堂が存在する社会は恥だろが。
このやり取りが、多くの共感と議論を呼びました。
そして同時に、「政治と現場の温度差」を痛烈に浮かび上がらせるものでした。
「誰でも来ていい」発言の真意とズレ
政治家の発言に悪意はありません。
「誰でも来ていい」「孤立をなくしたい」という思いは本物でしょう。
けれど、現場を支えている人たちにとっては、
「簡単に言わないでほしい」「その“誰でも”を実現する苦労を知ってほしい」という切実な思いがあります。
子ども食堂は“誰でも来ていい場所”である一方で、
現実にはその「開かれた空間」を維持するために、膨大な努力が必要です。
食材は寄付や割引でまかなわれ、ボランティアは自腹で交通費や光熱費を補っている。
それでも「誰でも受け入れる」を続けているのは、子どもたちの笑顔を守りたいからです。
言葉で「来ていい」と言うのは簡単ですが、
その裏で誰かが汗を流し、費用を負担し、時間を注いでいます。
現場の人々はそれを知っているからこそ、「現実を理解して発言してほしい」と願っているのです。
“誰でも来られる”を支える努力
子ども食堂は「困っている人のための場所」ではなく、「地域の誰もが集える場所」です。
その理念は、支援が必要な子どもたちを自然な形で受け入れるために欠かせないものです。
けれど、その理想を現実にするには、相当な覚悟と工夫が求められます。
食材を確保するために企業や農家を回る人、調理を担当する人、子どもたちを迎える人。
そのどれもが「ボランティア」であり、報酬ではなく“思い”で成り立っています。
「誰でも来ていい」その一言の裏には、
無数の努力と献身が積み重なっているのです。
だからこそ、現場の人々は、政治家やメディアに「理解と敬意」を求めています。
見た目の温かさだけでなく、そこにある現実の厳しさを知ってもらいたい――それが本音です。
善意だけでは続かない
「善意」で始まった活動は、やがて「制度の不備」を補う形になりました。
そして今では、全国に1万を超える子ども食堂が存在します。
それは温かい社会の証である一方で、制度としての支援が追いついていない現実の証拠でもあります。
政治が「誰でも来ていい」と発信するなら、
その“誰でも”を支えている人たちの生活と活動を守る仕組みを整える必要があります。
善意ではなく、仕組みとして支える政治へ。
それが、いま最も求められている視点です。
政治に必要なのは「共感」ではなく「行動」
政治家が現場を訪れ、SNSで発信すること自体は悪いことではありません。
むしろ、現場の声に触れるきっかけとして意味があります。
けれど、訪問や発信で終わらせず、そこから政策へつなげてこそ本当の意義が生まれます。
政治家が発する「温かい言葉」と、現場が抱える「冷たい現実」。
その小さなすれ違いが積み重なれば、やがて社会の分断を生みます。
だからこそ、現場を見て、支えている人の声を聞く政治が必要なのです。
子ども食堂の「誰でも来ていい」は、
無限の善意で成り立っているわけではありません。
制度と仕組みで支える社会をつくること。
それが、本当の意味で“誰でも来ていい”社会への第一歩なのです。
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